死んだらゴミになってしまうモノ
人間は死後はどうなるかわかりません。
宗教やその人の考えでいろいろな考えがありますが、誰一人として死の世界ははっきりこうだ!とは言えないと思います。
そこでまたモノの話ですが、当然死んだら自分の所持していたものは他人にゆだねないといけません。全て見られてしまいます。
私はそれがどうも恥ずかしいのと申し訳ないなぁと思うので、過去のモノはなるべく処分して、自分の持ち物はなくそうと毎日部屋中をうろうろしています。
とにかく、跡形もなくなる。あんな人いたね…くらいの記憶に残らないようにしたいのです。モノがあるとどうしても存在が大きくなってしまうように思うのです。そしてモノの整理が家族に迷惑をかけてしまう…それも避けたいです。
↓これを読むとしっくりきます
「これは自分のものだ」と思っているものはすべて、
君が死んだら失うことになる。
仏教徒はこの道理を知って、
「自分のもの」という
思いに屈してはならない。
『経集』より「老経」
~『いま、死んでもいいように』 小池龍之介著
この仏教徒をミニマリストと置き換えてもよいのではないでしょうか。
別にミニマリストでなくても人間は…でもいいかもしれません。
そうです。持っては死ねません。
でも生きているときはいろいろ執着してしまうのが人間です。
今の私は物事に執着がなくなってきている方だと思いますが、いざ死ぬとなったらどうなるかまだわかりません。必死にあがいているかもしれません。
私の父の友達で、すごく働き者の方がいて、その方が「わしは絶対仕事をやめない!金を持って死ぬ!!」と言っていたそうです。え…?って思いました。父はそこまで言うとあっぱれだと笑っていましたけど、そんな気合で働いているのでしょう。いろいろな意味ですごいです。
執着は多ければ多いほどしんどい。若い頃はそんなことがわからずに、あれもほしいこれもほしい、ああなりたいこうなりたいと、とにかく欲することばかりでした。しかし、モノを手放し欲望を減らすことにより、楽になってくるのが手に取るように分かりました。先日も書きましたが欲しいのは自由だけです。これも欲望といえば欲望ですが、欲望ともちょっと違うような…どういったらいいのでしょうか、空洞がほしいというか、中身のない空っぽがほしいのです。
空洞がほしいって、わかりにくい欲望ですけど、結構真面目です(笑)。空洞を求めていくことには全力をあげていきます(笑)。
家族と生活していると(特に子ども)、モノは結構増えていきます。これ必要???と思うものも多々あります。
しかし、私物はすべて自己責任です。そこだけでもせめて減らしていきたいものです。
私の荷物、まだまだスーツケースに収まりません。うーん、修行が足りん…最終的には収まるくらいの量まで減らしていきます。
ごきげんよう。